闕阿水先生が拓いた一指禅功

闕阿水先生が拓いた一指禅功①

闕阿水先生は、1919年に蘇州に生まれた。家は貧しく、7歳の時に浄智禅師の弟子となり、それ以来仏門に入り、法号は"海騰"と言う。浄智禅師は元の名を"杜順彪"と言い、南少林寺一指禅第16代の伝人であった。闕阿水先生は浄智禅師の指導の下に骨身を惜しまず練功に励み、一所懸命勉強したので、浄智禅師は非常に可愛がって先生を養子とした。 40年代の初期、浄智禅師が亡くなる前に一指禅功の真髄である"七陰錯首白骨手"、"点棉功"、"弾指"、"朱砂陰掌"、"陰経封経手"、"抽元法"、"定身法"等総てを闕阿水先生に伝授した。

ここに闕阿水先生は、一指禅功第17代の伝人となったのである。

闕阿水先生は功法の伝授を受けた後、寺を離れて四方に行脚し、1945年に還俗し、1946年に上海に居を構えた。闕阿水先生は、仕事の傍ら人々を治療していた。

先生の治療法は薬を用いる訳でもなく、また針を打つ訳でもなく、ただ病人から数尺離れたところから手掌や指を患部に向けて発功するだけで、数分後には患部の痛みも消失するのである。


闕阿水先生が拓いた一指禅功②

人々からは不治の病を治す病院であると見られ、不治の患者も数回から数十回の治療を受けると奇跡的に病気は治り、健康を回復した。

数年間に亘って先生が治療した患者は無数にのぼり、先生を師として求める人々も多く、先生はその中から若干の人を弟子として選んだ。

先生の心からの真摯な指導と厳しい鍛錬によってこれらの弟子は大きく成長し、現在では氣功界の重鎮として国内外から広く名を知られるようになっている。1980年、闕阿水先生は元の上海中医学院(現在の中医薬大学)の中医研究所からの招聘を受けた。

先生はここで子息の闕巧根、先生の弟子及び中医研究所の"林雅谷"研究員、上海交通大学の科研人員"沈漢昌"等と共同研究を行い、 「"一指禅"氣功は、人体の中に特異な"超常生理反応"を生み出し、発功中の光子をコントロールする能力を身につけ、更に自分自身の発功する遠赤外線の一種のエネルギーの輻射強度をコントロールすることが出来、自分の体表面に分布するエネルギー状態をコントロールすることが出来る。」と言う研究成果を成功裡にまとめることが出来た。


闕阿水先生が拓いた一指禅功③

闕阿水先生と共同研究者の科学論文は、雑誌《自然雑誌》、《氣功》、《新医学》等に相次いで発表された。

《中国百科年鑑》体育分冊 1980年版に掲載された内容によれば、「氣功師闕阿水が25回発功した実験データーによれば、発功前後の指端における血管容積の観察においては、発功時の血管容積と脈伝振巾は発功前に比べ著しく増大していた。
その差はP<0.001であり、又収功時における縮小もP<0.001 である。」

そして発功を受けた受功者の指標は上記の如く現れたが、発功した発功者もまた同様な指標を現し、それ以外の指標については、氣功師は受功者の指標を反映しているものはなかったと言うことである。1981年6月、闕阿水先生は上海市楊浦区体育場の招聘を受け赴いた。

ここで先生は先ず"一指禅功"の伝授を公開し、この功法を大いに広め、発達せしめ、人類の幸福に大きく貢献した。


闕阿水先生が拓いた一指禅功④

この公開以来、千年この方秘術として秘匿されていた"一指禅功"は世の中に広く公開され、上海から次第に中国全土に広く伝播されるに至った。

1982年4月"国家体委"は闕阿水先生の練功指導場面を録画し、そのうえ準備組織が作られ、闕阿水先生が"一指禅功"の総まとめをすることに協力した。

1982年4月 闕阿水先生が一人で仕事をしていた時に不意に上から石塊が落下して、不幸にも頭部に当たった。これが因で先生は1982年6月11日永眠された。享年63歳であった。

闕阿水先生の数多くの絶技は伝授されないまま中断され、僅か少しの功法、站廴功のみが伝えられただけで、秘術の伝導は終わった。

闕阿水先生の急逝は、氣功界にとっても重大な損失と言える。

中国における"一指禅功"を修練している人々は、老若男女を含めて増大しており、既に数百万人とも言われており、更に近年は香港、マカオ、台湾、シンガポール、マレ-シア、タイ、日本、ニュ-ジ-ランド、アメリカ、イギリス、フランス、カナダ等々実に広く伝えられている。